連載「クルマを被告席に座らせないために」
Vol.4 アメリカのラフルネイダー氏の貢献
日本の交通事故の歴史を見ると実にユニークな増減を繰り返していることに気がつく。日本のクルマが本格的に普及したのは60年代ごろからであろう。東京オリンピックのために、急速に自動車が普及し始め高速道路も建設されるようになった。こうして日本はアメリカや欧州に遅れること50年、本格的なクルマ社会が到来したのだ。しかし、その一方で交通事故の発生件数や死傷者数もうなぎ上りに増加していた。
1970年頃には年間の死者数は16000人以上に達していた。この数字はもちろん過去最高であるが、この時クルマは「走る凶器、走る棺桶」と呼ばれていた。幹線道路の中央は路面電車が走り、両脇を歩行者が何の区別もされない状態で歩いていた。そこにクルマが急増したわけだから、事故が起きないほうが不思議であったと想像できる。
そこで交差点などには積極的に信号機を取り付けたり、あるいはガードレールで歩行者を守るような対策が行われた。こうした状況下で行政も国民も自動車メーカーもメディアも、交通事故を大きな社会問題としてとらえその危機感を共有していたのであった。
その甲斐あって、10年後の1980年には年間の死者数は8000人くらいまで半減し、同時に事故発生件数も負傷者数も減少することに成功した。交通事故対策は「ドイツに学べ」と思っている人が専門家の中にも少なくないが、70~80年代の日本の事故死者半減という事実は諸外国にも例がないほどの出来事であった。
80年代以降再び交通事故は増加した。自動車メーカーは安全よりもクルマの性能を高めることや海外に生産拠点を求めてグローバル化に集中した。安全問題よりも円高という国際的なビジネス危機を乗り越えることが優先していた。日本の自動車ユーザーの感覚も麻痺していた。いつの間にか自動車は安全な乗り物だという勝手な意識が芽生え70年代の危機意識は忘れ去られた。
その結果90年代に入ると再び死者数は年間12000人を超えてしまった。そこで日本政府は自動車の保安基準に「衝突安全基準」を制定し、その数年後には自動車の安全情報も公開されるようになった。
それでは海外ではどのような安全対策が行われていたのだろうか。ガソリン自動車が生まれた欧州では日本と同じように衝突安全基準は制定されていないかったが、アメリカではすでに70年代から安全性が議論されていた。
1960年代にはアメリカ社会では交通事故の死者が5万人をこえる悲劇を抱えていた。1965年に消費者活動家であったラルフネイダーが書いた「Unsafe at any speed いかなるスピードでもクルマは危険」という一冊の本がクルマの危険性を訴え、全米を巻き込む大論争となった。
この本がアメリカ人のクルマに対する安全を意識づける大きなきっかけとなっていったことはいうまでもない。これをうけた連邦議会では1966年に「国家交通並びに車両安全法」(National Traffic and Vehicle Safety Act of 1966)を成立させ、その推進部署として現在の道路交通安全局(National Highway Traffic Safety Administration, NHTSA)が設立された。この安全法案に基づいて連邦自動車安全基準(Federal Motor Vehicle Safety Standard、FMVSS)が制定されたのである。