コラム

連載「クルマを被告席に座らせないために」
Vol.3 コンパティビリティ(共生)

 90年代初頭にメルセデスはビジョンAというコンセプトカーをモーターショーに出展した。全長3.6mというコンパクトカーでしかもFF(フロントエンジン、フロント駆動という現代のファミリーカーの多くが採用する駆動方式)。それまで大きな高級車を作り続けてきたメルセデスにとって、小さなFFのファリミーカーはメルセデスらしくないということで話題となった。
 このコンセプトカーを見たトヨタ自動車の豊田正一郎さんは「メルセデスがカローラをつくるぞ!」と危機感を募らせたと言われている。それほど当時の常識ではエポックメイキングな出来事であった。私はビジョンAのプレスコンファレンスに出席していたが、担当のエンジニアに話を聞いたことがあった。「なぜ、今メルセデスがコンパクトカーを作るのか」と。記憶でその時のインタビューの内容を書き記してみると:
 
KS:なぜコンパクトカーなのか?
MB:ハンブルグの小学生のアンケートの中で嫌いな父親の姿を訪ねたところ「アウトバーンの追い越し車線をベンツで走り、自慢げな父親の後ろ姿」という答えがショックでした。
KS:時代は変わったのですね
MB:そうです。いつまでも大きなクルマだけではだめなようです。
KS:環境問題もありますしね

立ち話でそんな話を交わした。
 
 しかし、この時の発表では明らかにされなかった重要な安全思想が小さなコンセプトカーの中に隠されていた。
 
 ビジョンAは1996年にAクラスとしてメルセデスの正式な一員となった。この年ベルギーで開催された試乗会で「Aクラスは小さいですが、大きなSクラスとぶつかっても潰れない頑丈なボディ構造を持ってます」とメルセデスのチーフエンジニアであるディエターチェッツェ氏(現在のダイムラークライスラー社のCEO)は私に説明した。サンドウイッチ構造を持つ二重フロアは、コンパクトカーの安全ボディとしてはきわめて重要である。大きいクルマと小さいクルマがぶつかっても乗員の傷害値が平等になるように設計する。これをコンパティビリティと呼び、メルセデスの新しい安全コンセプトとして提唱された。
 コンパティビリティを実現するには「小さいクルマはより頑丈に、大きいクルマは小さいに対して加害性がないように工夫する」ことが重要である。小さいクルマへの加害性を低減するためには「大きいクルマのバンパーの高さや、フロント前端部の柔軟性、形状などが重要である」と安全技術を担当するインゴカリーナ氏は熱く語っている。
 コンパティビリティを実践するために、メルセデスは直列6気筒エンジンを廃止しV6に切り替えたり工夫している。こうしたエンジンの変更は衝突安全の理由だけではないが、全社をあげて新しい安全コンセプトに取り組むメルセデスのこだわりを感じることができた。
 このようなコンパティビリティという考え方は、当時なかなか受け入れられなかった。軽自動車を国民車とて多く普及している日本のクルマ社会こそ、必要なコンセプトであると私は思った。日本の交通事故における事故データを見てみると、シートベルトをした乗員の致死率では圧倒的に小型車の被害が大きい。98年に軽自動車の安全性を高めるために、軽自動車の新規格が施行された時でもあった。大きなクルマの加害性を真剣に考えるべき時がきたようだと、その時思った。

 メルセデスが提唱したコンパティビリティはその後日本メーカーも真剣に取り組むようになり、コンパクトカーへの加害性を考慮した大きなクルマの設計が行われるようになった。安全技術で重要なことはリアルワールドで起きている実際の事故から学ぶことがとても大切なのである。メルセデスのインゴカリーナ氏は「真実に物差しを当てる」と表現している。70年代から自社で事故調査を行ってきたメルセデスの言葉は重いと思った。

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