コラム

"死なない"と"殺さない"自動車の安全性

コンパクト・メルセデスが意味するもの

1993年、フランクフルト・モーターショー。メルセデスは衝撃的なコンセプトカー"ビジョンA93"を出展した。わずか3.6mという全長は、現在の軽自動車とヴィッツの中間あたりとなるコンパクトサイズ。しかも創業から100年、後輪駆動一本槍でクルマを作ってきたベンツの持論を覆すFFレイアウト(フロントエンジン、フロント駆動)を採用していた。ちなみにこのFF方式は、現代のファミリーカーの標準的駆動方式で、スペースユーティリティに優れるが、高級な操作感が得難いと言われている。

さらに"メルセデスと言えば大型高級車"というイメージはすでに全世界共通のものであったから、このコンパクトなFFのファミリーカーを多くの人は不審の目で見た。「いったいメルセデスは何がしたいのか?」

コンセプトカーを見たひとり、トヨタ自動車の豊田正一郎さんは「メルセデスがカローラをつくるぞ!」と危機感を募らせたと言われている。後にそれはそんな単純な話ではないとわかるのだが、その一瞬「ついにベンツは高級車のくびきを離れて、大衆車大量販売に打って出るのだ」と思った人は少なくなかった。"ベンツのコンパクトカー"の出現は当時の常識ではそれほどエポックメイキングな出来事であった。


1993年のフランクフルトショーで世界の自動車メーカーに
衝撃を与えたメルセデス・ベンツ・ビジョン A 93

愛されないクルマ

当時、私はビジョンAのプレスコンファレンスでエンジニアに聞いた。「なぜ、メルセデスがコンパクトカーを作るのか?」。私の問いに、彼は「ハンブルグの小学生に、アンケートで"嫌いな父親の姿"を尋ねたところ"アウトバーンの追い越し車線をベンツで自慢げ走る姿"という答えがありました。それは我々にとってひどくショッキングな出来事だったのです。」と答えた。

時代は変わった。大きなクルマ、ステータスのあるクルマが愛されない、尊敬されない時代がやってきているのだ。もちろん環境問題もある。 しかし、この時明らかにされなかったもっと重要な安全思想がこの小さなコンセプトカーの中には隠されていたのである。

このビジョンAは1996年にAクラスとしてメルセデスの正式なラインナップに加わった。

ベルギーで開催された試乗会で、Aクラスに与えられた革新的なコンセプトが明らかにされた。「Aクラスは小さなクルマですが、大きなSクラスとぶつかっても潰れない頑丈なボディ構造を持っています」。チーフエンジニアであるディエター・チェッツェ氏(現在のダイムラークライスラー社CEO)はそう私に説明した。

Aクラスは乗客の乗るキャビンスペースの下にメカニカルコンポーネンツを収めるスペースを設けた二重フロア構造を採っており、従来のエンジンルームを空っぽにできることから、小さなボディにも関わらず大型車並みのクラッシャブル・ゾーン(衝突時に変形してエネルギーを吸収するための緩衝ゾーン)を確保することに成功したのである。


人間のサイズと比べれば判るとおり、従来のメルセデスからは
考えられないコンパクトなボディに、驚くべき安全コンセプトがこめられていた。

コンパティビリティの重要性

絶対的スペースが足りないため、クラッシャブルゾーンを十分にとることが難しかったコンパクトカーにとって、この二重床方式による安全ボディは極めて画期的であった。これにより、大きいクルマと小さいクルマがぶつかっても乗員の傷害値が平等になるように設計することが可能になったのである。メルセデスはこれをコンパティビリティと呼び、新しい安全コンセプトとして提唱した。

Aコンパティビリティを実現するには「小さいクルマに十分なクラッシャブルゾーンを設けると共に、乗員の乗るスペースをより頑丈にする」ことが重要だ。一方、大きいクルマに対しては"小さいクルマに対して加害性がないように工夫する"ことは重要だ。「小さいクルマへの加害性を低減するためには大きいクルマのバンパーの高さや、フロント前端部の柔軟性、形状などが重要である」と安全技術を担当するインゴカリーナ氏は語る。

例えば、現在メルセデスでは、コンパティビリティを実践するために、直列6気筒エンジンを廃止し、全長の短いV6エンジンに切り替えている。こうしたことからも全社をあげて新しい安全コンセプトに取り組むメルセデスのこだわりを感じることができる。

日本の交通事故における事故データを見てみると、シートベルトをした乗員の致死率では圧倒的に小型車の被害が大きい。しかし、それでもこのコンパティビリティという考え方は、当時、日本ではなかなか受け入れられなかった。私は「軽自動車を国民車とする日本のクルマ社会にこそ、必要なコンセプトである」と思った。

幸いなことに、メルセデスが提唱したコンパティビリティには、その後日本メーカーも真剣に取り組むようになり、大きなクルマの"加害性"を考慮した設計が行われるようになった。安全に関して重要なことは"リアルワールドで起きている実際の事故"から何を学ぶかである。メルセデスのインゴカリーナ氏は「真実に物差しを当てる」と表現している。'70年代から自社で事故調査を行ってきたメルセデスの言葉は重い。


メルセデスのラインナップ中、最小のボディサイズを持つAクラスだが、
最大のサイズとなるSクラスと衝突しても損傷率は見劣りしない。
このコンパティビリティという考え方が革新的だった。

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