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二輪のサイアク 四輪のサイテー

西川淳

ドライバーの教育。交通社会においても、やはり教育が最大のテーマであると思う。今や教育は、我が国の国家的テーマであり、教育の再生なくして未来などない。それほど、事態は逼迫している。日々の生活の中で、それはほとんど連続して出現するのだった。

最近、もっとも気になる現象を、2輪と4輪に分けて綴っておきたい。

2輪でサイアクなのは、信号待ちで対向車線を使って先頭に出るという行為である。道幅に余裕がある道で、二台か三台をすり抜けたり、多少センターラインを超えて行く分には、ルールはともかく、2輪の”メリット”だから別にいいと思う。

しかし、例えば幹線道路に出る狭めの二車線で、中にはバスなんかも混じっていて、そんな中を反対車線を堂々と使って先頭に出る”心意気”はどうかと思う。待っている4輪ドライバーの理不尽を言っているのではない。幹線道路から曲がってきたクルマやバイクとの危険を言っている。

4輪のサイテーは、周りの見えていない駐車違反である。駐車違反はやってはいけないが、やむをえぬこともあろうかと思う。その場合には、そこに停めていいかをあらゆる角度から瞬時に判断し、大丈夫な場合に”ちょいと失礼”になるんだと思いたい。

しかし、中には、反対車線に駐車違反のクルマがあるのに、同じ位置関係の対面に、駐停車してしまうやからである。それでも十分通れるなら問題ないが、日本の街中では寛容な道はそう多くない。

違反行為に良いマナーもあったもんじゃないが、最低限を守るという意識もまた、社会のルールであろう。

制限速度 その5

西川淳

ということで、制限速度を変えなくても、気分よくラクに速く、しかもクルマの魅力を享受しつつ長距離を走ることだってできるんじゃないか・・・。

そのために必要なことを、前回のさまざまな説から抽出してみると、ざっとこんな具合だろう。

1.ドライバーの認識←急いだってたかが知れている→教育問題
2.道中のエンタメ性←時間に拘束されないというクルマの魅力を高める→クルマとインフラ問題
3.情報提供と活用←ナビシステムの進化、インフラとのさらなる融合→クルマとインフラ問題

結局のところ、すべては大なり小なり交通量の平準化に寄与することになる。これは限られた資産を有効に使うと考えれば、当然のことである。高速道路は、限られている。

さて、ここに新たな希望を付け加えておきたい。

日本の国土には高速道路が似合わないことを以前にも記したが、それはドイツ車志向の強くなりがちなわれわれ自動車側の専門家が、大陸間移動を実利とする欧州やアメリカのようにと願っても無駄だという意味であり、国家・国民の財産としての道路および高速道路は必要不可欠であるという立場は変わらない。

われわれの子孫に必要な道路ネットワークは何か、ということを考えた方が建設的だ。決して、130キロで走れる縦横無尽に走れる高速道路網ではないはずである。

そういう意味で、完全自動化の前に、否、自動化になればさらに有用だと思うが、走る・走っている行為そのものが、”気持ちいい”と思える道路環境が欲しいと私は思っている。

運転しながら他のことを楽しめ、と言っているのではない。運転に集中できる環境は、無機質なマテリアルで覆われた道路からじゃ得られない、と思うのだ。リラックスと緊張を適度にバランスさせる技術は、クルマの側でもできつつある。それこそ、ドイツ車の得意分野であろう。

そこに、目に飛び込んでくるフロントウィンドウ越しの景色や、心地のいい路面舗装や、機能とデザインの両立した各種標識やインフォメーションが加わったら・・・。運転はもっと安全に、もっと楽しくなると思う。クルマそのものにファンがなくなった、としてもだ。

気持ちいい道は、おだやかでやさしい社会的な運転を教えてくれるはずである。

制限速度 その4

西川淳

現象面では相変わらずなのだ。週末の東名上りは相変わらず、海老名SAの先を頭に30キロほどを平気でアナウンスしているし、相変わらずトラックの列がいつも数台単位で追い越し車線に連なっている。

けれども、私は以前ほどにイライラしなくなった。突発的な交通事故による渋滞を除けば、以前より精神的にラクである。

例えば、年末の帰省。以前は真夜中に出て、トラックの列を縫いつつ、ほうほうの体で帰ったものだ。ここ数年は、昼間に出てもそれほど大きな渋滞に合うこともないし、バカみたいに追い越し車線をふさぐトラックに出会う回数も量的に少なくなった。

走りやすくなった、と考えられるアクティヴ&ネガティヴな一般理由は、いくつかある。

1.みんなのマナー向上説
いくつかの悲惨な事故や事件をきっかけに罰則化が進み、さらに社会的教育などが行き届きつつあるから、という説。理想。

2.クルマと社会のシステム進化説
ETCやナビゲーションといった、高速道路を走るうえで有効な技術が発展、普及したから、という説。よりスムーズな走行環境が整ったし、目的地につく時間の目処がわかることで、落ち着いたドライブができる。いったい何時に着くんだろう、という不安が解消された。

3.エンターテイメントの質向上説
ミニバンの普及、車内の娯楽装備の充実、SAPA施設のサービスが向上したことで、どんな行動単位(家族とか)でも時間にとらわれることのなく走れるようになったから、という説。交通量の平準化を生んでいるはず。ありがちな時間帯に集中しない。

4.情報入手の簡易化説
今出たら最悪!など、渋滞などの道路情報が誰でもどこでも入手できるようになったから、という説。これも交通量の平準化に繋がる。

5.高速料金割引システム説
速さと安さを天秤にかけたら安さが上回るというドライバーが多くなったから、という説。平準化。

6.高速道路を走りたくないクルマが増えた説
ミニバン、軽自動車、コンパクトカー、と積極的に高速道路を走りたいとは思わないクルマが今や国産車の稼ぎ頭であるから、という説。消極的には走るだろうから、ひょっとして走る回数は減っているのかも?ミニバンで帰省は増えたであろうが。

まだいろいろ考えられるが、そういった一般理由に加えて、自分自身の内なる理由も考えられる。

1.私も歳を取ったな説
社会への怒りが歳を追うごとにやがて諦観となり、自分も大人になったと勘違いしている、という説。他人の無謀に怒りを覚えることが少なくなった。

2.急いでもたかが知れてる説
500キロをがむしゃらに走って得られる時間的余裕などたかが知れていると知ったから、という説。制限速度前後で走っても、スムースに走れて入れば、クルマで帰って良かったという実感が残る程度には早く帰れる。

3.乗り手を急がせすぎない車に乗っている説
他人、自己に関わらず対戦モードになりにくいクルマで長距離を移動することがラクだと知ったから、とう説。例えば、旧いベントレー。あおり気味に抜かされても別になんとも思わない。

帰省に関して言えば、これにペットのウサギが載っているから1時間半おきに休憩が必要、という説も加わって、結果的に昔のようなストレスはなく、クルマの帰省がかなりラクになったのだった。

制限速度 その3

西川淳

要するに何をいいたいかと言えば、速度制限を上げようが下げようが、それほど事態に変化はないんじゃないの?だ。

特に、日本の高速道路においてはその必要性をあまり感じない。交通効率の観点からも、経済的な観点からも、精神衛生上の観点からも、道路建設の観点からも、また社会的成熟度という最大の問題点からも、速度を上げることは危険である。夜間割引を車線上で待つ輸送トラックの群れを見るたびに、高速道路の意味が分からなくなる。

例えば、高速道路をもう一度国有化し、国の財産としてネットワークを張り巡らせ、通行料を無料にし(道路で設ける必要などこれっぽっちもないはずなのだ!)、路面環境を整え、安価に提供される各種最新テクノロジーを装備したクルマが、真っ当な目的合理性(ガソリンを安く買うために渋滞を引き起こすという愚は避けなきゃ!)をもって、プライベートな移動手段であるというメリットを決して阻害されることなく、ある目的地まで(免許をもつ)誰もが安全に快適に理性的に移動できる、というのであれば、そこから可能な限り速度を上げてもいいと思う。

人が個々にもっているはずの社会性よりも個人性が勝っている今、それを自動車にまつわるテクノロジーだけでカバーし、制限速度を上げるという考え方には、賛成しえない。少なくとも、社会教育のレベルから積み重ねていかねばならないし、インフラのリニュウアルも必須だ。現状の交通社会にとっては、たとえ百利あろうとも、人の生き死に関わる一害の可能性が高まる行為は、慎しまなければならないと思う。

とまあ、前置きがかなり長くなってしまったが、なぜこんなことを思ったかと言うと、ここ数年、個人的には高速道路が走りやすくなったと思っているからだ。

私は可能な限り、クルマで移動する。800キロまで、つまり東京を起点にすれば、北は青森、南は広島あたりまで、クルマでいく。ほんの数年前までは、たとえば実家のある奈良まで”5時間で行けた”とか、そうゆう馬鹿なことをしでかしていた。追い越し車線をとろとろ走るトラックにはいつも激怒していたし、下品なミニバンのあおりには真っ向から勝負してあげたし、自然渋滞を引き起こす区間に至っては設計者の不明をののしったりもした。

わがままである。例え、マナー違反や設計ミスが相手だったとしても、戒めは自らにも適用すべきであることは、自明だ。

とはいうものの、それから自分自身が改心したわけではない。相変わらず速く走りたいし、追い越し車線のウスノロには罵声を浴びせたいし、ETCゲートを優先ゲートと勘違いし”俺はこんなに速くぬけられるぞ”を誇示してノーズを割り込ませる大バカ野郎には天罰が下りますようにと祈る。

それはそうなんだけれど、概して、その頻度は、速く走りたいという欲求も含め、かなり少なくなった。高速道路は走りやすくなったと、私は実感している。

制限速度 その2

西川淳

そんなもろもろの、建設的な考えや自分なり思い、行為への自己弁護、ご都合主義な共通認識を持ち出して、だから最高速度制限を上げて欲しい、というのもまた、大いなる誤謬だというしかない。

新たに建設される高速道路の制限速度を上げてしかるべきだという正当な理由と同じ数だけ、上げなくてもいいという理由があるはずだ。

つまり、それが、社会ルールの本質である。そう考えると、高速道路が似合わない(必要ないというわけじゃない)日本で、国産車の高速性能がままならぬ時代に、時速100キロを最上限にしたという過去の決断は、先見の明があった、と言うことだってできる。是非ではない。ましてや、高速道路の設計云々の話だけでもない。

放っておくとカオス。それを防ぐために、ある一定の制限をかける。緩い輪もあれば、厳しい輪もある。殺人や窃盗で捕まり厳罰に処されることの罪、罰、社会的制裁と、交通ルールを破ったものとではもちろん軽重の差はあるのだが、社会が決めたルールを破ったという事実に変わりはない。そして刑罰は、しょせん、見せしめである。そうやって、社会は成り立っている。

余談だが、罪を憎んで人を憎まず、というフレーズがある。これは、ルールや法の下のみせしめ社会を端的に表す、まるで潤滑油のような言葉だ。

わが子を殺された被害者には到底理解できない言葉であるし、それゆえ加害者とその家族親族に課せられる社会的制裁の強さは、人を憎まずの領域を越えている。しかし、軽微な速度違反はどうか。それが、1%の可能性だとしても、重大な事故に繋がるという認識のもとでルールとなっている一方で、捕まったほうが不運だと”赦す”社会もまた上手く機能しており、正に人を憎まずになっている。

ぎりぎりのところで、見せしめ社会が成立している。スピード違反も、そして死刑も、見せしめであるということに変わりはない。

制限速度 その1

西川淳

クルマ好きの論点で言うと、高速道路の100キロ制限なんてものは、もはや多くの人が守らない有名無実なルールとなっているし、クルマの性能向上(安全面も含め)を考えれば恐ろしく前時代的である、となりがちだ。

国産車の国際競争力を考えるうえでも、もう少し制限を高めてもいいという意見だってある。その他、経済効率、輸送効率、交通実環境など、さまざまな観点から、現状のルールが現実にそぐわないと指摘されることも多い。

流れに自然とのって走っていても、多くの場合ルールを逸脱してしまう。かといって、ルール厳守で走れば、たちまち身の危険が襲い掛かる。と思って、つい油断していると、捕まる。最悪、事故を引き起こす。

筆者もまた、速く走りたい人である。それはもう本能というべきもので、いつも取り締まりにびくびくしつつも、正直に言って、制限速度を守りきれる日などないと思う。守れる人になりたいと思うが、気が付くと、やぶっている。

無謀な速度で走ることなど決してないと自分では思っているが、所詮、そんなものは自己弁護にすぎない。ルールはルール。違反は違反。罰は罰。高速道路を、例えば130キロで走っていたら、個人的には速いとは思わないけれども、社会的に見れば制限速度を30キロも50キロも超える猛スピードであるには違いない。たとえシューマッハが乗っていようとも。

だから私はスピード違反で、何年に1度か捕まる。おまわりさんが、なぜか優しく”運転手さん、ちょっとスピード出てましたねえ”ぐらいの言い方で違反者(赤切符なら犯罪者?)に接する。そのたびに、少しアンラッキーだったと自己の不注意を呪いつつ、でも反省はする。免停にでもなれば、速度超過が引き起こすさまざまな害悪をビデオなどで知らされる。そのときは、大きな事故を起こさないですんだと、安堵する。けれども、二度と速度超過をしなかったか、と問われれば否である。そういう決意さえできていないと思う。弱いものだ。

日本人に必要な高速道路とは?#1:高速道路は日本に似合わない?!

西川淳

大陸間交通を必要としない、孤立した島国において、本来の目的に添った高速道路が似合わない可能性の高いことを如実に示す、データ比較を計算してみた。いずれも、日本を1としたときに、自動車先進国がどういう割合になるかを表したものだ。

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比率Aは、高速道路総延長距離を国土面積で割った数字を元に計算したもの。Bは、同じく高速道路総延長距離を国民総生産で割った数字が元になっている。
(ただし、各数値の測定年月には若干のズレがあるので、あくまでも参考値としていただきたい)

国土が日本の25倍以上あるにも関わらず、人口は2.3倍(よってGNPも相応)、保有台数は3倍、高速道路総延長距離は12倍というアメリカ合衆国との比較はあまり参考にならないが、ヨーロッパ諸国は日本と国土面積も近い(英国0.66~日本1~フランス1.46)。人口、およびGNP、そして保有台数は日本の半分以下である場合が多いが、それゆえこれらの国々と比較した上のデータが興味をひくと思う。

国の大きさに比べて、高速道路の総延長距離が突出して長いと言えるのが、ドイツだ。イタリア、フランスは日本とほぼ同じ割合である。逆にイギリスは70%の高速道路率だ。

高速道路網が、経済の要諦であることは明白であろう。自動車移動によってもたらされるあらゆる経済活動を思い浮かべれば、納得できるはず。その総体とも言うべきGNPを基準に高速道路の長さを比較してみると、同じ島国の日本とイギリスがよく似たもの(それでもイギリスの方が日本より長いと言えるのだが・・・)であるのに対し、その他の国は軒並み3倍以上の長さである。

考えてみれば当たり前のことではあるが、こうして数字で見てみると、いかに大陸の高速道路が”役立っている”かが判る。走りやすいのも当然か・・・。

もちろん、これは単なる数字遊びでしかない。それ自体に何かを解決する能力はない。以前にも書いたように、そもそも国土の成り立ち、自然環境の問題も大きい。しかし、経済と密接な関係があるはずの高速道路が、いったいどれだけ必要かという1つの目安にはなる。

西川淳

西川淳

一番好きな高速道路はどこか、と問われれば、フランスのオートルートだと答える。今回、パリショーを取材するために訪れたのを機に、改めて、その理由を考えながら走ってみることにした。

単純すぎて話にもならない理由が、1つだけ見つかった。おしなべて自然に逆らわない、自然と融合した、開放感の溢れる道路設計になっている、ということだ。

肥沃で平坦な土地が多く、都市国家の名残を残す農業大国であるフランスだからこそ、の設計ではあろう。北海道と似てなくもない。それを基準に考えること自体、そもそも間違っているのかも知れない。しかし、オートルートを走るとき、私の心がなぜか平穏で、景色に見蕩れることもなく、安定した安全なスピードで、リラックスしながらドライブすることができる、という事実は、重要だと思う。

もちろん、平均速度も著しく異なるかの国の高速道路における事故事情が、どんなものであるか、日本より劣るのか劣っていないのか、については、統計的に評価する必要がある(次回にて)。それでもなお、最初に主張しておきたいのは、人は環境に左右されやすいということだ。

フランスのような土地柄にこそ高速道路は似合っている。その逆は何かと言うと、そう、日本には似合わない、である。これは、走るのに適した美しい道とはどういうものか、という私の推察に深く関係している。今後の研究課題ではあるが、ドライバーにとって心穏やかに気持ちよく、だからこそ結果的に安全かつ快適に走れる高速道路の推定条件を、3つ挙げておきたい。

その1:自然を利用した建造になっていること
その2:視界の開けた土地を走っていること
その3:ゆるやかな起伏やカーブが適度に連なること

その1は、むやみにコンクリートなどの人工物を増やすことなく、あくまでも自然環境を利用し、融合するような道であることだ。その2は、回りの景色が美しくなくてもいい、ただ開放感ある場所を選んで作りたいということ。その3は、その存在自体が、スピードを自然に抑制できるということ、である。

フランスや北海道のような環境ならばともかく、その他の地でこれらをすべて満たすことは、非常に困難だ。特に、日本のように平野部が極端に少ない土地では、まず不可能である。イタリアなども、一部、相当に無理な高速道路設計(例えばボローニャとフィレンツェを結ぶA1)があり、実際、そこを走って事故現場を目撃しないことが稀だ。

ただ、不可能ではあるけれど、作った方が便利であるという経済性と政治性、社会資本性のみを重視して作られてきたのが、日本の高速道路である。そこに、机上の安全性(それとて十分とはいえないが)以上のものを求めることなど、クルマ文化を輸入したわれわれ日本人に求めること自体、難しい。

それ以上に決定的なのが、日本は島国であるという事実だ。幹線をコンチネンタルに網羅するという莫大なメリットが日本には望めない。もちろん、日本全国の都市を、排他的な道路網で結ぶことができるというなら、話は別だが・・・。ただし、その場合、移動手段はクルマじゃなくてもいいのかも知れない。

日本には高速道路は似合わない。今さら必要か不必要かという議論よりも、まず、似合わなかったんじゃないか、と私は思っている。クルマによる、自主的な移動の必然性、対社会適合性が大いに揺らぎつつある今、それはいちクルマ好きとしてとうてい受け入れ難いことだが、確信に近づきつつある。

ファン・トゥ・ドライブであること。

西川淳

 何も、スポーツカーのように意のままに走ることだけを指すのではない。ドライバーが自ら、能動的にクルマを操るということに、A地点からB地点への単なる移動手段であるこ
と以外の、何らかの意味をそのクルマから見出せること。私はそれを、クルマ選びの基本においてきた。そして、その結果、ドライバーが気持ちよく走ること、走れる環境こそ、重要だと思うのだった。

 前回記したように、その考え方が今、大いに揺るぎつつある。最も尊重されるべきだったはずの、意思による自由な移動という概念そのものが、度重なるドライバー側の無謀と、それを見過ごしてきた社会システムの欠陥によって、危うくなりつつあるからだ。価値と犠牲のアンバランスが目に見えてきたということでもある。

 自動車メーカーだけでなく人も社会もすべて、大いなる自己矛盾に陥りつつある。要するに、クルマの進化は誰のためだったのか、クルマなど本当は必要なかった、という単純明快な理屈だ。年間で世界が失う人命の数と尊さ、家族の悲しみを考えてみれば、その犠牲をよしとして成り立つ便利性など、いかほどのものでもない。あるのは、経済性とそれにまつわる政治性のみ、という暗い現実のみである。もちろん、私のようにクルマ好きのささやかな楽しみも…。

 私はクルマが好きである。ずっとずっと、ファン・トゥ・ドライブしていたいと思う。クルマという存在がすでに自分の心を奪ってしまっている以上、その場から理不尽に退場することは、今さら許されるはずもない。だからこそ、考察と研究と検証を、これからも続けなければならないと思っている。

 待望のレクサスLSがデビューした。このクルマの登場が意味すること、それは、ファン・トゥ・ドライブという価値感からの脱却かも知れぬ、と私は思っている。ファンのあるクルマがいいクルマ、というのは古い価値感だ、という提案である、と。

 あのクルマには、およそファンというものがない。良し悪しではなく、まるで無い、のだ。古い価値感に生きる私には、最初、まるで理解できない乗り物に過ぎなかったが、最近、少しづつ、LSの世界観が示すコトの重大さに気づき始めた。これからの自動車の価値は、安全安心迅速な移動を、質的に高めることだけに求められるべきである、ということだ。

 ファン・トゥ・ドライブよ、さらば!である。

 これは、欧米のクルマおよびその文化に、真っ向対立するものだ。全くの無味乾燥であるというパフォーマンスは、かのメルセデス・ベンツにも求めることなどできない。

 それほど、レクサスLSのパフォーマンスは強烈であった。アウトバーンを200キロ以上で巡航する性能は世界一級であり、そのうえ、ひとたびクルマから降りれば一瞬にして運転していたという感覚や時間を忘れることができる。ドライバーに、肉体的、精神的な疲れの痕跡を一切残さない。これは、クルマの歴史上、すごいことだと思う。

 日本の道路、特にハイウェイ、に欠けていることがあるとすれば、それは気持ちよく走れるような設計もしくは演出だと思っていた。しかし、そんなことをおかまいなしに走りきるレクサスLSというクルマが登場した以上、本当に重要なのは、充実したインフラか、進化したクルマか、はたまた人間の教育か。すべてというのは簡単だが、同時には困難である。クルマから正解に向うのが手っ取り早いというのが、レクサスLSの存在が意味するところ。

 ならば、やはり、我々は、ファン・トゥ・ドライブを捨てるのだろうか。

気分よく、気持ちよく、走れること。

西川淳

ドライバーにとって、それが一等幸せで、結果的に安全に繋がるかも、を芯において、道路や環境の問題を考えたいと思っていた。中央道・飯田付近の魔のカーブで起きた悲惨な多重衝突死亡事故。あのような悲劇を呼ぶ道路環境の真逆を考えることをテーマにしたいと思う反面、常につきまとう疑問がある。

ドライバーは果たして、性善か、性悪か。

福岡県の飲酒運転による悲惨な「事件」以来、続発する飲酒運転事故や、いわゆる逃げ得の問題などが連日、マスコミ報道を賑わせている。

飲酒運転の厳罰化以降、飲酒に起因する死亡事故は激減したとはいえ、それでも平均すると1日に2人が亡くなっている(もちろん、事故はそれ以上に多い)という現状で、ようやく白日のもとにさらされたかというのが正直な思いだ。

そんな折、一冊の本の、電子版無料公開の知らせがメールで届いた。

題名は、『殺人ドライバー』。同年代の知人である、沼澤章氏が、もう3年ほど前にまとめあげたものだ。死亡事故を起こした加害者の実像に迫ったルポタージュであり、題名同様、ショッキングな内容に満ちている。

沼澤氏の言葉を借りると、交通事故は最早『事故』ではなく『事件』だ、ということになる。

死亡事故を起こす多くのドライバーは過去に何らかの、しかも同種(飲酒なら飲酒という風に)の違反を起こした者が多く(再犯性の高さ)、これを事実上、交通行政が野放しにしてきたという実態。あまつさえ、彼らがクルマを買って乗る自由を再三にわたって与えてしまうという、社会システムの構造、環境。そういった事実を考えれば、事故などではなく殺人と同じく事件である、というのが著者の主張だ。

著者はまた、クルマ依存社会からの解放にまで、考察に及んでいる。クルマを使った日常生活の利便性をこれ以上追及することに、果たしてそれだけの意味があるのだろう?クルマ好きの彼にとって、それはつらい結論ではあった。

欧米との比較や、電子版の最新情報も追加されているので、詳細をぜひご一読願いたい(http://www.y-p-o.net)が、「殺人ドライバー」を読んだ私は、とにかく悩むこととなった。

冒頭のように、ドライバーの視点からしか物事を見れなかった人間にとって、ドライバー性善説は基本の基本。ところが、考えれば考えるほど、そんなのんきなことを言っている場合では、どうやらなさそうだ。

運転不適格者に対する、あらゆる面に渡った厳罰化。罪の納得性強化。それは、もちろん必要であろう。しかし、物事はそう単純な話ではない。厳罰を与えることは事態進行の歯止めにこそなれ、問題解決には至らないのではないか。

そこには凶悪化する未成年者犯罪などと同根の、根本的な病理、今の日本の社会の闇がはびこっている気がしてならないからだ。大東亜戦争後の高度経済成長の最中に、忘れ去られた、何か。

ゆきあたるのは、最小限の社会である家族の問題と、その中でおこわなれるべき教育のあり方だろうか。

もっと知られるべきは人間の心理メカニズムかもしれない。繰り返される飲酒運転という犯罪は、最早、麻薬や快楽殺人と同じではないだろうか。またしても捕まった某有名経済学者のセーラー服趣味と、人間性という観点で変わらぬのではないか。

ふとわが身を振り返る。飲酒とは無縁でも、私は本当に、「殺人ドライバー」ではないと言い切れるだろうか?

いつでもどこでも制限速度を守ってクルマをドライブしているのか?
人をクルマで殺すのに100キロもいらないことを常に考えているか?
根拠のない前提にたって、身勝手にドライブすることはないのか?
スピードが好きではないか?

殺人ドライバーは、常に自分の背中にいるとは言えまいか?

それでも、気持ちよく運転すること、させてもらうことは、必要か?

ファン・トゥ・ドライブは、古い価値観になってしまったのだろうか。

運転し移動する自由を、はたして社会がどこまで許容すればいいのか、してくれるのか。クルマ文化が進んでいるという欧米の、自動車事故による死者数および割合が、日本より圧倒的に多いという事実も、もう一度かみしめてみる必要がありそうだ。

気持ちよく運転すること。そんなのまるで必要ない、となったとき、今の交通社会は、どう変化するのだろう?自動車は、どうなるのだろう?共存ははたして可能か?
ならば、どのような形で?

そして、クルマ好きはどこへいけばいい?

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